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管理人のEki-MAJOです。

本日は、織田信長に関する話です。

 織田信長像 清州城公園

こちらの像は愛知県清洲市の清州城公園の信長像です。

 織田信長 濃姫像 清州城公園
 http://aichinagoyakankouchi.com/cate43kiyosucastle/entry14306.html

こちらの像は、正室の濃姫(帰蝶、斎藤道三の娘)の像とセットになっています。恋愛のパワースポットとして近年、人気だそうです。桜の季節は、それは美しい眺めだとか。

桶狭間合戦に赴く若き日の信長像(27歳)なので、南蛮鎧でなく、大鎧姿なのも良いですね。数ある信長像の中で、一、二を争うカッコよさだそうです。


で、桶狭間合戦でなく長篠合戦の話です。(笑)

長篠の戦には、教科書にのるほどの有名な合戦なのに、謎が多い。はっきり言うと、謎だらけ。

織田・徳川連合軍の鉄砲三段撃ちはなかったとか。武田騎馬隊は存在してないとか。一体、どういうこっちゃ?

例えば、鉄砲が千丁単位で使用された戦いなのに、戦場の設楽原では、鉄砲玉がほとんど出土しないそうです。
出土したのは、わずかに三十数個だけ(!)。

だからといって、鉄砲がまったく使われなかったという証拠にはならないそうです。

当時の鉄砲玉は鉛製で、貴重だったため、戦の後、回収してリサイクルしたのでは?というのです。(ゴルフボールみたい。地道に凄い話である)

謎になってしまったのは、奮戦していた主力は実は徳川軍で、後に天下をとった豊臣秀吉が家康の活躍にしたくないがために、史料を書き換えた可能性もあります。
(戦場は家康の領地の三河ですし、織田軍はあくまで援軍という訳です)

詳しい経過は、こちらの記事が詳しいです。




この戦いのきっかけは、徳川方の家臣の謀反が原因でした。
1575(天正3)年、徳川方の某家臣が野心をおこして、自らが岡崎城主になりたいために武田勝頼に内通の知らせを送ったのが始まりでした。

勝頼はその知らせに応じるために、一万五千の軍を組織して、徳川との国境に向かいます。

この謀反は、やがて露見し、その家臣と一味は処刑されます。
陰謀が失敗した知らせが勝頼に伝わり、当初の目的ではなかった長篠城の奪還に向かいます。

勝頼は、この戦いの前年に父の信玄も落とせなかった高天神城を落とし、意気軒高でした。徳川家康も負けじと長篠城を取り戻します。

武田勝頼のほうは、「いつもの国境(くにざかい)をめぐるこぜり合い」くらいの感覚だったのかもしれない。この意識が、あとあと影響してくるのです。

長篠城は、当時の武田領と徳川領の最前線。武田と徳川で、奪ったり、奪われたりを繰り返しておりました。
徳川家康は、かねてより武田がこの城を奪いにくるだろうと準備万端、用意しておりました。

多くの食糧、数百丁の鉄砲、さらには大砲まで配備し、守将は若干二十歳ながらも優れた力量の武将・奥平貞昌に任せ、500の城兵を配します。

(当時、奥平貞昌は、家康の長女・亀姫と婚約していました)

その上で、家康は織田信長に援軍要請を出すのです。

「長篠城が取られたら、徳川は武田に寝返るしかありません!HELP ME!(超訳)」という半分、脅迫めいた内容だったとか。


それで信長も決意します。武田との決戦を。勝頼の親爺の信玄が生きていた時には、直接対決を避け続けて、頭を下げまくっていた信長が。
(信長は戦国最強を謡われた、信玄率いる武田軍団と直接にはぶつかりたくなかったのです)

信長の決意のほどを示す言葉が伝わっています。
「この節根切り 眼前に候」 (武田の滅亡は、目前である)
(細川藤孝(幽斎)にあてた手紙より)

信長の戦争は、一面、経済戦争でもあります。
3千丁もの鉄砲をそろえるだけの経済力、加えて流通の拠点、自由貿易港・堺を抑える政治力。

特に堺は大事でした。当時の鉄砲を撃つのに必要な黒色火薬。この原料の硝石は、当時は国内生産できず、ほぼ完全な輸入品でした。
(今の石油を想像して下さい。火薬と引き換えに日本人が奴隷として売られた記録があります)

カトリックの世界(制服)戦略|夢の宮


堺は、その硝石を手に入れられるほぼ唯一のルートでした。ここを抑える意味が分かるでしょうか?
おまけに堺は鉄砲鍛冶でも有名です。(鉄砲鍛冶で有名なのが、堺と近江国友村と仙台)

武田氏研究の第一人者・平山優(ひらやま・まさる)氏によれば、武田家でも、鉄砲隊を充実させつつあったが、特に鉄砲玉や火薬を充分に用意出来なかったと。

そのひとつの理由が、堺を信長に抑えられていたことです。


信長は、経済活性化のための、イベント開催も大好きでした。踊り興行に、相撲興行。
信長が始めたらしいと言われる相撲の行事のひとつが、現代に残る相撲の取り組みの最後に行われる弓取り式です。

  

ある時、安土城で行われた相撲興行が終わった時に出入口に見物人が殺到して、けが人がでました。
信長が責任者を叱ると、相撲が終わると出口に人が殺到するのは止められないとの答えでした。

なら、最後に力士にちょっとした見世物をさせればいいのではないか?と信長は考えました。それで弓取り式が始まったと言われています。

(諸説あり。弓は武士の象徴でもあり、武士のことを別名、「弓取り」とも言う)

(これは映画のクレジットとおなじ考え方。最後まで見る人は見るし、帰る人は帰る)

イベントを盛り上げるためなら、女装のひとつやふたつ、ヘーキでやる人です。

 
 CMで女装する(笑)子孫の織田信成氏

信長は、生まれる時代と職業選択を少々、間違えた感じもあります。

アイデアマンだし、性格的にナイーヴなところもある人で、戦国武将向きの性格とは言えない(笑)。
平和な時代に生まれて、イベントプロデューサーでもやってたほうが、実は幸せな人だったかもしれません(笑)。



楽市楽座で関税を廃止し、商業活性を行い、「こっちの水はあ~まいぞ」と誘いをかける作戦が得意でもありました。


それはさておき、信長はあまり軍議(作戦会議)をしない人でした。
それでも、今回の戦は大事だと感覚で伝わるものがあります。

最前線の長篠城に運びこまれた武器弾薬や食料を見て、目を丸くしている一人の足軽がおりました。

奥平貞昌に使える足軽で、名を鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)と言い、「こたびの合戦は大変な戦なのだな」と緊張で胴震いしておりました。
奥平家としても、武田方から徳川家に寝返ったばかりで、ここが頑張りどころ、正念場でした。

長篠城の籠城戦は、勝頼は数日で済むと当初は考えていたようです。籠城戦のセオリーは、城兵10倍と言われ、攻める側が城兵の10倍以上の兵力なら落ちると言われています。

500対1万5000ですから約30倍の兵力差で、勝頼の見込みは間違っていません。

ところが、長篠城は持ちこたえるのです。
籠城のための武器弾薬、食料も充分なことに加え、奥平貞昌の指揮のよろしさと兵の士気の高さとド根性で、なかなか落ちないのです。

これが武田側のつまづきの始まりでした。

業を煮やした武田軍は、兵糧庫への焼き討ちを決行。さすがの長篠城兵たちも、腹が減っては戦はできぬで、追いつめられてゆきます。

その時に、家康に援軍要請のための使いを出すことにしましたが、周りを武田軍に囲まれており、決死の役目でした。

その時に、自ら「ぜひ、それがしに・・・」と名乗り出るものがいました。あの鳥居強右衛門です。

強右衛門は、水錬(水泳)が得意でした。体力にも自信あり。身分も低く、武田方に顔を知られていない。捕まっても、ごまかせるかもしれない。

「強右衛門、行ってくれるか」 「お任せあれ」

夜陰に乗じて、長篠城を抜け出した強右衛門は、城からの水路と川を泳いでわたり、見事、城外への脱出に成功。
 長篠城
 長篠城跡 Wikipediaより

そのまま走って、翌日には家康のいる岡崎城にたどり着き、援軍の要請を伝えたと言いますから、かなり頑健な体と体力の持ち主でした。

(まるで「走れ メロス」。強右衛門さん、この時、36歳。水泳4キロ、ランニング片道65キロをこなすとは、まさに鉄人・・・)

なんとラッキーなことに岡崎城には、家康だけでなく、信長もいて、両将とも出陣の準備を整えていた時でした。

信長も家康も「ご苦労であった。食事でもしてゆけ。そちは我らと共に参ろう」と言ってくれたのですが・・・

喜び勇んだ強右衛門、「このまま戻って我が殿に伝えまする」とそのまま戻ることを選択します。これが運命の分かれ道・・・

長篠城の近くに戻ると、戻ってきた合図にのろしを上げます。脱出成功の時にも、のろしを上げていました。
二度ののろしが武田軍の注意を引いて、警戒が行きより厳しくなっていました。

強右衛門は、工事の人夫に化けて、城に入りこむ隙を伺っていたのですが、様子を怪しまれ、ついに武田軍に捕らえられてしまいます。

勝頼は、「援軍は来ないと言え。そうしたら、命だけは助けてやろう」と寛大なところを見せます。しかし、強右衛門は、覚悟を決めて三河武士の意地を見せるのです。

城の前に引き出される強右衛門。息を呑んで、見守る貞昌以下の城兵たち。

死を覚悟した強右衛門は大声で呼ばわったのです。
「あと数日で援軍は参りまするぞ!それまでの我慢じゃ!」と。思わず、城から上がる歓声。

「おのれ!」と怒りで青くなる勝頼。「強右衛門、済まぬ」と心の中で詫びる貞昌。敵味方、悲喜こもごもです。

強右衛門はその場で張りつけにされて処刑されましたが、この犠牲でかえって城兵の士気はたかまり、織田・徳川連合軍の到着まで長篠城は持ちこたえたのでした。

(この話は、美談として後世まで伝わりました)

しかし、惜しい、惜しいよ、強右衛門さん。生まれる時代と職業を完璧に間違えている(笑)。現代に生まれてトライアスロン選手でもしていれば、五輪出場間違いなし(?)だったのに。(;^_^A


そうこうしているうちに織田・徳川連合軍約3万が長篠に到着。近くの設楽原(したらがはら)に布陣します。

信長は、勝頼が「おじ気づいたのか」と勘違いするほど、ゆっくりと行軍していました。信長は時を待っていた。「晴れ」という時を。

長篠・設楽原合戦の行われた時は、今でいう梅雨時でした。信長は梅雨のあい間の晴れの日を待っていたのでした。(合戦は旧暦5月21日なので、6月末ごろ)

種子島銃(火縄銃)は、雨だと使えないからです。

その隙に、足軽たちに馬防柵を作らせていました。柵だけでなく、土堀も掘って。宣教師たちから聞いた、築城陣地のアイデアでした。

(この築城陣地の考えは関ケ原でも見られますし、完成形があの真田丸でしょうか)

勝頼にしてみれば、信長・家康が揃っているし、騎馬隊を防ぐ(弱そうに見える)馬防柵もあるしで、戦いたくなったのでしょう。
見事な“武田ホイホイ”(?)作戦です。

信長は、勝頼が戦わずに甲斐に退却しても仕方がないと考えていたため、武田軍が設楽原に進軍してきたのを「天が与えてくれた機会」と、大変に喜んだと言われます。

当時の火縄銃は命中率も殺傷能力も低く、玉込めにも時間がかかる。突撃作戦は、必ずしも無謀とも言い切れない側面もありました。
なので、武田勝頼は決して愚将ではありません。しかし、相手が悪かった(笑)。

長篠合戦図屏風
 長篠合戦図屏風 三列で撃ってないことからも、三段撃ちはウソなのが分かる。


千丁単位の鉄砲が機能的に使われた近代戦を、日本人は、この時初めて体験したのです。



設楽原の合戦の勝利を決定的にしたのが、鉄砲の威力ではなく、実は動員力の差です。

信長は無意識にランチェスターの二次法則まで駆使して(?)、武田軍を封じ込めるのです。

近代的な武器で戦う場合の戦力は 戦闘力=武器効率×戦闘力の2乗

織田徳川連合軍3万VS.武田軍1万2千で、単純計算で、5:2の割合の2乗ですから、かなり厳しい。

この劣勢をひっくり返すには、鉄砲を超える最新兵器(大砲など。現代なら野戦バズーカ砲)の導入が考えれます。
(関ケ原の戦いでは、石田三成軍が野戦砲を持ち込み、大健闘している)

それも難しかったのは、信長が自由貿易港・堺を抑えていたことでも、触れました。信長、「必勝」の気合で周到に準備し、戦いましたね。

(ランチェスターの法則は、今でもマーケティングや営業などに使われる戦略で、さわりだけでも知っておいて損はないです)

逆に武田勝頼のほうは、最初にもっと人員を動かせたかもしれない。武田軍の動員能力は約3万ほどと言われていましたから、もっと動員できた可能性もあります。
(当初、こぜりあいと思った意識が動員力の差でしょうか)

逆に信長は、兵を2軍に分け、一方を隠しておいて、兵士が疲れてくると入れ替えるといった小技も見せています。

武田軍は、個々の戦闘能力が高く勇猛なことで知られていましたが、疲れてきては・・・




(↑可愛いマンガで楽しく戦国時代が学べるおすすめなサイトです。少々BL的なところがあるのはご愛敬)


武田軍は俗に「武田二十四将」と言われるぐらいですから、いわゆる「キャラの立った」武将が多いのが特徴です。

勇猛果敢な赤備えで知られた山県正景や鬼とも言われた冷静沈着な馬場信春。それを率いるリーダーのお屋形様の信玄。魅力的なチームでした。

それがトップが変わると・・・

さすがの山県正景や馬場信春も、織田徳川連合軍の兵の多さや鉄砲の数を見て撤退を進言します。さすが歴戦の猛将だけに、不利なのは分かったのでしょう。

それを勝頼に「正景も老いたな。おじ気づいたか」と言われてしまう。
こう言われては、死を覚悟して戦うしかありません。(悲しすぎ・・・(´;ω;`))


実際、武田軍は勇猛果敢でよく戦いました。ドラマや映画で描かれているような、撃たれてすぐに壊滅している訳ではありません。武田軍は約二刻(4時間)も戦っています。

朝の6時くらいに始まった戦闘は、昼ごろに勝負が見え、午後2時くらいに武田軍の退却が始まりました。

山県正景は、銃弾を何発も撃たれ、右手に刀を持ち、口に軍配をくわえたまま、壮絶な最期を遂げました。

馬場信春は殿(しんがり)となって、勝頼を逃がし、命尽きるまで戦い、最後は「手柄にせよ」と討たれたのでした。(泣)

(個人的に馬場信春さん、好きですな。今生きていても「理想の上司」と呼ばれそうな、戦国の出来る男。上司(信玄)の信頼もあつく、中間管理職の鑑(笑)。ここにもいたな、生まれる時代を間違えた人(笑)が・・・)

敵方の『信長公記』にも「馬場美濃守、手前の働き比類なし」と称えられるのも当然か。

武田軍の損害は一万人とも一万二千人とも言われました。織田・徳川連合軍の被害は6千ほどだったので、これは見事な完勝です。

以降、個々の能力や意思が高くてもチーム全体の成績UPに繋がらなくなるのが、武田勝頼と武田家の悲しい運命となってゆきます。

この時より、武田家滅亡までわずかに7年・・・(ちなみに本能寺の変は、武田家滅亡から約3ヵ月後)

逆に勝った織田徳川方についた奥平家はラッキーでした。
長篠城を守り抜いて、功労第一とされ、貞昌は信昌と名を改め、婚約していた亀姫を妻に迎えました。後に四男一女に恵まれます。
のちに十万石の大名にも加増されます。

あの(張り切り)強右衛門さんの子孫はそのまま奥平家に仕え、今もご子孫が健在だそうです。エエッΣ(・□・;)

(参考文献:井沢元彦「逆説の日本史」 他)

信虎・信玄・勝頼 武田三代
平山優
株式会社サンニチ印刷
2019


武田氏研究の第一人者・平山優先生監修のムック本です。ご興味のある方はどうぞ。


 

戦国気分にひたれるPAとして有名。設楽原の信長本陣跡にも近い。

お土産に火縄銃や刀剣のレプリカが人気だそう。(売れ筋商品だとか)


【おまけ】
武田の赤備えってどんな感じ?と思って映像を探したら、一番、ピッタリきたのがこれでしたね。

 黒澤明 『乱』
 映画「乱」より 監督・黒澤明

赤い旗や鎧が緑に映えて美しいですね。黒澤明監督は自ら絵も描かれる人でしたから、ワンカットだけでも実に美しい。

晩年の作品の評価には、いろいろと毀誉褒貶(きよほうへん)ありますが。
戦争の場面でさえ美しさにこだわる業の強い人でした。
「戦いは残酷だから恐ろしいのではなく、その残酷さが時には美しく見えてしまうから恐ろしいのだ」
黒澤明 (映画『地獄の黙示録』を見ての感想)
「影武者」で勝新(勝新太郎)と大喧嘩した話は有名ですが、この映画でも音楽の武満徹と衝突しました。
武満徹は、意地で素晴らしい仕事を残しましたが。

ワダ・エミ様担当の豪奢な衣装も美しかった。今どき、こんな贅沢な映画は撮れませんね。
鱗模様の衣装で能面のように無表情な原田美枝子様が恐ろしかった。(;^_^A 文字通りヘビのような、女の執念を表現されておりました。

映画「影武者」のラストは長篠合戦のシーンでした。武田家を追い出された元影武者が槍をもって織田軍に突撃してゆく。当然、鉄砲に撃たれて即死です。

光の本物を追って、「影」武者もまた死ぬことで、武田の滅亡も暗示される。見事な演出でした。



【おまけ2】

選挙には必ず行きましょう。白紙で出しても構わない。国民の意思表示です。

政治に無知だと、結果、泣くことになるのは私たち国民です。

ベストでなくてもベターな政党や政治家を選びましょう。政策が自分に近い、もしくは姿勢がブレない政治家を選ぶことです。

 天野喜孝 自民党選挙イラスト
 天野喜孝氏のイメージイラスト https://special.jimin.jp/


それから、経済産業省のパブリックコメントにもご協力お願いします。匿名、匿住所OKだそうです。



ナルズさんの記事に文例が載ってます。ご参考にして下さい。


こちらのNHKに関する法令のパブリックコメントにもご協力をお願いします。(募集は7月31日まで)




意識して戦うのは、大事ですね。私も信長公を見習って「この節根切り、目前に候」の心構えで戦いたいと思っております。(笑)



悪しきものを祓いたまいて、常に正しきことを行わしたまえ



最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆さまがお幸せでありますように。



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