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 今上 明仁天皇 退位の儀式
 2019年4月 退位の儀式に臨まれる明仁上皇

先日、ご譲位され、上皇となられた明仁天皇は歴史上で似た天皇がおられます。
後白河法皇その人です。

 後白河法王 
 後白河法皇

どこがどう似てるか?両者とも、父帝に「皇位失格者」と思われていたことです。


後白河天皇の父君は、鳥羽上皇でした。

鳥羽天皇の最初の中宮は、待賢門院、藤原彰子(たまこ)。
美女の聞こえ高い方でしたが、若い頃より、忌まわしい噂がついてまわる方でした。

彰子は、祇園女御(白河法王の寵姫)の養女でしたが、何と養父の白河法皇と入内前から関係があったというのです。
(まるで平安時代版「華麗なる一族」by山崎豊子)

鳥羽上皇と崇徳上皇の対立|左大臣どっとこむ

鳥羽上皇から見れば、白河法皇は祖父にあたります。

そのせいもあって鳥羽上皇は、生まれた長男の顕仁親王(後の崇徳上皇)を「叔父子(おじこ)」と呼んで、忌み嫌っていました。

「あれは、私の子ではなくおじい様の子だ。だから私の子のようでいても実は叔父なのだ。叔父子だよ」

白河法皇が崩御されると、復讐するかのように、崇徳天皇を皇位から引きずりおろして、躰仁親王(近衛天皇)を皇位につけます。

大河ドラマ「平清盛」でも描かれていたように、鳥羽上皇は(妻と祖父の不倫の子の)「叔父子」崇徳上皇の子、重仁親王を何が何でも、絶対に天皇の位につけたくなかったのです。

ところが、新しい寵姫・美福門院(みふくもんいん)、藤原得子(なりこ)との間の近衛天皇は子を残さずわずか17歳で崩御してしまう。

後継者選びに苦慮する鳥羽上皇と美福門院でしたが、意中の親王がいました。

鳥羽上皇の第四皇子(母は問題の待賢門院ですが、父親は鳥羽上皇)雅仁親王の子、守仁親王です。

実母を早くに亡くした守仁親王(後の二条天皇)は、美福門院の猶子(ゆうし=相続権のない養子)になっているので、好都合でした。おまけに学問好きで優秀です。

ところが、父親の雅仁親王は、当時の歌謡曲・今様(J・POP?)に夢中な遊び人。とても天皇になるにはふさわしいと思えない。

しかし、父親が天皇になっていない親王をいきなり天皇には、出来ません。先例がありませんでした。

鳥羽上皇は断言します。「雅仁は、即位の器にあらず(天皇になれる器ではない)」と。遊びが過ぎるから、と。

しかし、美福門院は粘って、食い下がります。
「雅仁親王は、つなぎでようございましょう。お子の守仁親王こそ、天皇にふさわしい。雅仁は、数年で譲位させればいいことです」

美福門院も崇徳上皇を散々、冷遇してコケにしていたので、重仁親王が天皇になったら(父の崇徳上皇に)復讐される恐れがあるので、必死でした。

雅仁親王の乳母夫(めのと)で、側近・信西(しんぜい)入道(大河ドラマでは、阿部サダヲさんが演じていました)も、加勢します。
「父の雅仁親王をとばして、いきなり子の守仁親王の即位は難しゅうございます。左様な先例はありませぬ」

ここで三者三様の思惑と利害が一致し、後白河天皇の誕生となります。
ハッキリいうと、数年だけの“つなぎ”の天皇と思われていたのです。かなり、屈辱的な状況の即位でした。

鳥羽上皇は、重仁親王を天皇にしたくないがためにかなりの無理をしたので、自らの死後、乱がおきるに違いないと予見しながら、亡くなります。

その予感通り、武士の台頭するきっかけとなる保元の乱が勃発するのです。
乱の対立構図は以下簡単に。
  • 後白河天皇側・・・美福門院(近衛天皇生母)、藤原忠道、信西入道、平清盛、源義朝
  • 崇徳上皇側・・・藤原頼長(悪佐府)、源為義、平忠正、平家弘

勝ったのは、弟宮の後白河天皇の側でした。

負けた側の武士には、それまで廃止されていた死刑が適用されるなど、過酷な刑罰が処されました。
(そのため、源義朝は父の為義を処刑したほど)

崇徳上皇(崇徳院)は、讃岐に流され、無念のうちに憤死するのです。(そのため怨霊伝説が誕生するのです)

崇徳上皇と後白河天皇(雅仁親王)は、兄弟といっても育った環境が違い過ぎて、兄弟の意識は薄かったと思われます。
(崇徳上皇は幼くして即位し、一方の雅仁親王は皇位から外れた皇子とみなされていました)

なので、無念の兄君に対する仕打ちが少し冷たい印象もあります。

 崇徳上皇

後に藤原定家は、崇徳上皇の無念を慰めるかのように、百人一首にその御製をいれました。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ 77番 崇徳院

(岩を噛んで流れる急流が分かれてもいずれは一つになるように、僕たちも必ずや再会してこの恋を貫きたいものだ)

百人一首には駄作も多いですが、この御歌は傑作のひとつでしょう。どこか悲痛な趣さえ感じる美しい恋歌です。
(このお歌を贈られた女性は、どなただったのか・・・)

(ちなみに、この歌は上方落語の『崇徳院』のモチーフにもなっています)

崇徳院(すとくいん) 落語|落語あらすじ辞典 千字寄席


ところが、放埓な後白河天皇は勝者になったらなったで、やりたい放題を始めます。

一番信頼できる側近の信西入道がさじを投げるほど。永井路子先生の著作より引用します。

信西にしてみれば、いよいよ院の側近として権力をふるおうというときになって、思わぬ敵が現れた訳だ。それでなくても荘園を削ったりしたことから、摂関家には憎まれている。その上、信頼からのつげ口で、後白河の心も離れていってしまえば、立つ瀬がない。
「なぜ、あんな小人を近づけられるのか」
憤懣(ふんまん)やる方ない信西は、はしなくも史料の中にその罵声をのこしている。
「我が君は、和漢に比類なき暗主だ。謀反の臣がそばにいてもわからないし、人がそれを注意しても気がつかない。こんな愚昧さは古今見たことも聞いたこともない!」
これはのちに九条兼実が、他人から聞いた話として日記『玉葉』に書きとめているのだが、信西の絶望的な憤りがうかがわれる。ついでにそのところをひくと、信西はさらにこういっている。
「が、君にはその徳が二つある。一つは何かやりたいと思ったら人が制しても何でも必ずやりとげる。もう一つは、聞いたことは決してお忘れにならぬ」
と。これに対して兼実もまた、思いたったらそれを押し通すなどとは、賢主にとって大欠点だが、後白河はあまり愚昧だから、こんなことでも徳のうちなのだ、と痛烈な批評を加えている。
 永井路子『源頼朝の世界』 (中央公論社刊)より

何もそこまで言わなくても、みたいな痛烈なレベルまで、こき下ろされています。(しかも側近中の側近に)

(もともと雅仁親王は、母が父の鳥羽上皇から疎まれていたので、即位の目はないだろうと遊び呆けて、『帝王学』を学んでいなかったせいもあります。それで父君から「即位の器にあらず」と言われてしまうのです)

つづく平治の乱で、側近の信西入道はあえなく殺されてしまう。
有能なブレーンもいないまま、後白河法皇は、平安末期の乱世を渡ってゆくハメになるのです。

ところが世間の見る目に反して、後白河法皇は約30年以上、「治天の君」(ちてんのきみ=院政を行う上皇や法王)の立場でい続けることになります。

それは、法王独自の絶妙なバランス感覚のなせる業でした。

平家が頼りになると思えば、平家一門にベッタリ頼り、平家が邪魔になれば、源義仲や源義経を平家の対抗勢力にあてる。

ついで源義経を検非違使尉に任じたことで、兄の頼朝との不和の種をまくのです。

綱渡り的なバランス感覚の良さで何とか、法王自身は乗り切りましたが、周りは犠牲者ばかりでした。(;^_^A

(平家一門、信西入道、源義仲、源義経・・・。死屍累々)

犠牲にならなかった源頼朝も、後白河法皇に散々、翻弄されイラッときた挙句、「日本一の大天狗!」と痛烈なイヤミを言ったことはあまりにも有名。


平成上皇と後白河法皇の諱(名前)の相似
  • 崇徳上皇-諱(いみな)・顕仁(あきひと)-明仁(平成上皇の諱)
  • 後白河法皇-諱(いみな)・雅仁(まさひと)-正仁(常陸宮様の諱)


ふと思うと、後白河法皇と平成上皇は愚昧(愚か)な点は、そっくり。
平成上皇は、自からは「何もしない」愚かさでしたが、後白河法皇は、周囲を積極的に巻き込んで犠牲者を出す愚かさ。

(愚かなのか、賢いのか判断に迷う点もよく似ておいで)

昭和天皇は、天皇の印の印璽を明仁上皇に渡さなかったという噂もさもありなん。
後白河法皇も、父君の鳥羽上皇から「即位の器にあらず」と断じられたのは、前述の通り。

明仁天皇の即位の期間と、後白河法皇が治天の君であった期間はほぼ約30年。

後白河法皇は結果的に、院政を終わらせた方でした。
明仁上皇も、明治以来の“因縁”を終わらせる天皇ということになるのかもしれません。

私はなんで、昭和天皇は、こういう諱を息子たちにつけたかな?、とかねてより疑問でした。
わざわざ崇徳上皇とその弟の後白河法皇と同じ読み方の諱を。

(しかも、皇族の諱の読み方は素直に読めないような諱をつける習わしらしいのに、このお二人と文仁親王は素直に読める諱です)

平成上皇は、昭和天皇の実子でなく秩父宮と勢津子さま以外の女性の間に生まれた子で、昭和天皇が養子にもらった説がまことしやかに伝えられています。

昭和天皇と香淳皇后様の間には、なかなか親王が誕生されませんでした。そのせいで、と。

史実でも、崇徳上皇の皇子、重仁親王は保元の乱後、出家し、崇徳上皇の直接の血筋は絶えました。

愚昧の君と言われながらも、皇統は、後白河法皇の血筋(孫の後鳥羽天皇)が継ぐことになります。

 昭和天皇 執筆

ひょっとしてひょっとすると昭和天皇は明仁親王を天皇に即位させることで、同じ読み方の諱の崇徳上皇の無念を慰めるおつもりだった?

しかし、皇統を長く伝えるのは弟宮の正仁親王の血筋であると。昭和天皇の暗号(コード)でしょうか?

 常陸宮妃華子様 英国ロイヤルオペラ
 英国ご訪問中にロイヤルオペラで『蝶々夫人』を鑑賞

お若い頃の常陸宮妃華子様のお写真ですが、お腹が心なしかふっくらとされておいで。英国に滞在中に極秘○○されたかもしれないとの噂。

そして、生まれた子を明仁天皇の養子にしたかもと。(○子の文仁親王と清子様)


それにしても、ダイアナ妃といい、待賢門院璋子様といい、魅力的で“モテ過ぎる”女性がロイヤルファミリーに入ると後が大変です・・・

果たして、崇徳院の父上はどなただったのか・・・これは古来より謎とされていまして、裏付ける史料があまりに少ない。
その『謎』に果敢に挑んだのが、故・角田文衛博士です。



(この本をそのまま丸写ししたような小説が、故・渡辺淳一の「天上紅蓮」。良いのかなぁ?「ベルばら」も後半は、シュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」丸写しでしたが・・・)

院政を混乱させた美女・待賢門院璋子は「オギノ式」で計画妊娠!?現代の医師が解説|アエラdot.

白河法皇が、外聞が悪くても(璋子との年齢差は48歳!)璋子を自分の妃に加えていたら、何の問題も起きなかったのです。

(祇園女御とは、相当にモメたでしょうが、それでも自分の色事の後始末をつけるというだけの話です)

孫の鳥羽上皇に押し付けるという『無茶』をしたばっかりに、戦争まで起きてしまった・・・
そして崇徳院の呪いで、天皇家は政権を武家に長く奪われるという展開になったのです。


 
後白河法皇が愛された今様(現代風の歌謡曲の意味) 初音ミクバージョンで

後白河法皇の隠れた功績が、今様の選集、『梁塵秘抄』を残してくれたことです。古代歌謡の集大成。

このアンソロジーがなければ、ドラマで静御前の舞などは、再現は難しかったと思われます。
男装した遊女の白拍子が今様を歌い、舞うスタイルが、院政期には大流行しました。

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アネックスのほうも更新しました。
たち別れ いなばの山の おまじない|夢の宮 アネックス
チャーミングな人|夢の宮 アネックス

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近頃、神様からの「しるし」なのか、なんと茨木県でコウノトリが目撃されたそうです。
住宅街にコウノトリが現れた 車の上で空をあおぐ 茨城|ライブドアニュース

茨木県は、親王の知行国。昔は常陸の国と言いました。そして、正仁親王は「常陸」宮様。
コウノトリは、子供を運んでくると言われる伝説の鳥です。

これはおしるしかもしれませんね。

一方では、痛ましい事件も。川崎登戸での事件で犠牲なった女の子はチェロを習っていた「華子」さん。

滋賀県の暴走事件の犯人の一人は、真子(みちこ)容疑者。


ああ、何かが繋がりそうな・・・


【おまけ】

 佳子内親王 朝見の儀
 眞子内親王 朝見の儀

嗚呼、日の本の姫宮は、お綺麗で可愛いと、改めて感じました。



悪しきものを祓いたまいて、常に正しきことを行わしたまえ



最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆さまがお幸せでありますように。


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